坂本龍馬ゆかりの地 京都伏見の見どころマップ

伏見は京都南の玄関口にあたって、幕末動乱の最中に龍馬が足がかりとした地です。
また伏見は日本有数の酒どころ。お龍によると龍馬は『量を量り兼ねます。』というくらいの相当な酒豪だったそう。京都伏見の観光は酒豪の龍馬をしのびながら酒蔵巡りを楽しむ街歩きがおすすめです!

伏見観光見どころ

伏見へのアクセス:
JRでは京都駅から近鉄京都線急行で10分の桃山御陵前(ももやまごりょうまえ)駅下車
京阪電車では淀屋橋から京阪本線特急で35分、三条から12分の中書島(ちゅうしょじま)駅下車

寺田屋界隈へは桃山御陵前駅からは徒歩12分程度、中書島駅からは徒歩7分ほどです。


龍馬ゆかりの伏見散策ガイドの新着情報

黄桜カッパカントリー

酒蔵仕込みの地ビール「ケルシュ」やビールにあうソーセージなどが美味しいです^^。

京都発の生地ビールはケルシュ、アルト、蔵のかほり、の3種類。 管理人のおススメはケルシュで、華やかな香りで喉ごしがいいです。 美味しい京都の地ビールが飲めます。

龍馬通り商店街

寺田屋での襲撃後、龍馬はこの辺りを駆け抜けて逃走したといわれています。 寺田屋東の道が「竜馬通り」と名付けられています。
 
龍馬グッズが集まる土産物屋や飲食店が並ぶ商店街をぶらつきながらランチや食べ歩きを楽しめるスポットです。

寺田屋

寺田屋は昔ながらの船宿の風情を残す旅館で、表に寺田屋と書かれた提燈が掲げられています。寺田屋は大阪と京都間を結ぶ「三十石船」の船宿で、薩摩藩との縁が深く、薩摩藩士が大阪と京都を行き来するのに利用されていました。
文久2年(1862)の寺田屋騒動や坂本龍馬の定宿として知られています。

寺田屋はお宿としても営業中で、龍馬を想い一泊することもできます。

龍馬の大仕事

龍馬の活躍は「幕末の奇跡」と言っても過言ではないです。なぜなら町人郷士という低い身分で、しかも脱藩浪士の身分でありながら、この国の形を変える偉業を成し遂げたからです。

龍馬の大仕事ベスト5を挙げました!

龍馬の果たした大仕事Best1:大政奉還

大政奉還とは、将軍自らが天皇に政権を返すということ。

龍馬は土佐藩を動かして、15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に大政奉還をさせたが、これは世界でもまれな無血による政権交代でした。

実現させた時、龍馬は男泣きに泣いたといわれています。

龍馬の果たした大仕事Best2:薩長同盟

龍馬は犬猿の仲だった長州藩と薩摩藩の和解がなければ新しい日本の誕生はない、と考えていました。 そこで亀山社中を使って両藩の商取引を手助けしました。

その結果、薩長同盟が結ばれることになり、これが討幕の原動力となったのです。

龍馬の果たした大仕事Best3:船中八策(せんちゅうはっさく)を考案!

龍馬は船中八策という新国家の政策案を考え出しました。 これは幕府を倒した後の日本の姿を構想したもので、龍馬の死後、船中八策は「五箇条の御誓文(ごせいもん)」に姿を変えて明治新政府に引き継がれて、生き続けています。

龍馬の果たした大仕事Best4:亀山社中、海援隊を結成!

龍馬は、貿易や海軍をおこなって利益を上げ、そのお金でこの国を建て直そうと亀山社中や海援隊という海軍商社をつくりました。 亀山社中は「人材派遣業」、海援隊は「出版事業」もおこなっていましたが、一番の目的は政治活動でした。

龍馬の果たした大仕事Best5:5000両の資金調達に成功!

文久3年(1863)4月、龍馬の師匠だった勝海舟は、14代将軍・徳川家茂(いえもち)に直談判し、海軍学校建設の許可をもらいました。 これが神戸海軍操練所です。

そして、勝海舟の命令を受けた龍馬は福井前藩主・松平春嶽(しゅんがく)を訪ね、資金調達を依頼しました。 そこで龍馬はなんと5000両の借用に成功したという。 これは福井藩の1年間の予算に相当する大金で、海舟をさぞびっくりさせたことでしょう!



坂本龍馬関連年表

西暦
(和暦)
年齢龍馬の動き世間の動き
1835
(天保6)
1歳11月15日▶土佐藩郷士・坂本八平の次男として高知城下に誕生する土方歳三、小松帯刀、篤姫(天璋院)も天保6年出生
1853
(嘉永6)
19歳3月▶江戸へ遊学。北辰一刀流千葉定吉道場に入門
12月▶佐久間象山の門下に入り、西洋砲術を学ぶ
6月▶ペリーが浦和に来航
1854
(安政元)
20歳6月▶土佐へ帰国する3月▶日米和親条約締結。下田と函館の開港を約束
1856
(安政3)
22歳8月▶再び江戸へ遊学する
1858
(安政5)
24歳9月▶土佐へ帰国する6月▶日米修好通商条約締結
9月▶安政の大獄が始まる
1861
(文久元)
27歳9月▶土佐勤王党に加盟する8月▶武市半平太らが土佐勤王党を結成する
1862
(文久2)
28歳3月▶沢村惚之丞とともに脱藩。閏8月、千葉定吉道場に寄宿する
秋ごろ▶松平春嶽に謁見する
秋ごろ▶勝海舟に入門する
8月▶生麦事件が起こる
1863
(文久3)
29歳2月▶京都土佐藩邸で7日間謹慎後、脱藩罪を許される
5月▶越前福井に向かい、松平春嶽に海軍操練所の資金援助を依頼する
12月▶土佐藩から帰藩命令が出る
4月▶勝海舟が海軍操練所設立の許可を得る
6月▶高杉晋作が奇兵隊を結成
7月▶薩英戦争が起こる
1864
(元治元)
30歳2月▶帰藩命令を無視し、再び脱藩する
8月ごろ▶お龍と内祝言を挙げる
8月▶西郷吉之助(隆盛)と会う
5月▶幕府が神戸海軍操練所を開設
6月▶池田屋事件が起こる
12月▶高杉晋作が下関で挙兵する
1865
(慶応元)
31歳閏5月▶桂小五郎と面談。同月、西郷が桂との会談をすっぽかす
閏5月▶亀山社中を結成する
3月▶神戸海軍操練所が廃止される
1866
(慶応2)
32歳1月▶龍馬の立ち合いで、薩長同盟が締結する
1月▶寺田屋で幕府の役人に襲撃される
2月▶お龍と結婚する。新婚旅行で鹿児島へ旅する
6月▶第二次長州征伐が始まる
12月▶徳川慶喜が15代将軍に就任する
1867
(慶応3)
33歳2月▶脱藩罪を許される
4月▶海援隊の隊長になる
4月▶いろは丸が沈没。5月、紀州藩が賠償金の支払いを約束
6月▶長崎~大坂の船中で後藤象二郎に「船中八策」を示す
9月▶海援隊がライフル銃1300挺購入
11月▶「新政府綱領八策」を作成する
11月15日▶近江屋にて刺客に襲撃される
11月16日▶未明に死亡する
10月▶徳川慶喜が大政奉還を上奏する
12月9日▶王政復古の大号令が発せられる


坂本龍馬の人生

坂本竜馬坂本龍馬は幕末の志士。1835年11月15日、土佐国(高知県)高知城下の郷士坂本八平の次男として生まれる。

実名は直柔(なおなり)、変名は才谷梅太郎(さいだにうめたろう)。
1853年3月、江戸に出て北辰一刀流千葉定吉道場に剣を学び北辰一刀流の免許を得る。

1861年8月土佐勤王党が結成されるやこれに加盟。
10月には剣術修行を名目に出国、翌62年1月には長州萩に久坂玄瑞を訪れ、帰国後3月24日に脱藩。大坂、京都を経て再び江戸へ出た。

在郷当時に江戸で幕臣勝海舟を訪い、その見識に感激して入門。
単純な攘夷論を捨て、航海術を修行し勝を補佐して活躍した。

63年には勝の提唱による「海軍操練所」の設立に奔走するが、勝の失脚により操練所は解散となる。

操練所解散後は、同志を率いて長崎に商社(亀山社中)を設け通商航海業に乗り出す。
これを媒体として倒幕のため薩長2藩を同盟させる運動に奔走、中岡慎太郎と協力して翌66年1月20日には京都で薩長同盟を成立させた。
その直後の23日、伏見寺田屋で幕吏の襲撃を受けるが、寺田屋の養女お龍の機転で危うく難を免れる。その後お龍と結婚。

1866年参政後藤象二郎(かつての土佐勤王党の弾圧者)が土佐藩が貿易のため長崎に設けた土佐商会に出張し、翌67年1月龍馬と会談する。土佐藩は山内容堂の公武合体路線の行き詰まりから方向転換を求めていたため、龍馬と中岡慎太郎の脱藩の罪を許し、龍馬を海援隊長、中岡を陸援隊長とする。

6月、後藤とともに京都に向かう船中で龍馬は、大政奉還、公議政治などの新国家構想をいわゆる「船中八策」としてまとめた。これが土佐藩論を動かし、10月山内容堂は将軍徳川慶喜に大政奉還を建白、大政奉還が実現する。

その後も龍馬は土佐、長崎、福井などを奔走し、新政府の構想を練っていたが、11月15日夜、京都の下宿近江屋で中岡慎太郎と会談中、幕府見廻組に襲われて暗殺された。
享年33歳。

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